蕎麦屋さんに入っていざ注文となった時に、かけそば?もりそば?ざるそば?せいろそば?
なにがどれだか意味不明!ってなりますよね~
今回は、そんな冷たいお蕎麦の名称のルーツについて掘り下げてみたいと思います。
江戸は流行発信基地
そばの起源を調べると、必ず、江戸時代となります。
そもそも江戸時代とは、かの有名な徳川家康が征夷大将軍になり江戸に幕府を開いた慶長8 (1603) 年から 15代将軍慶喜の大政奉還によって王政復古が行われた慶応3 (1867) 年にいたる 265年間を称して、そう呼びます。
カンタンに言えば、江戸(東京)が流行っていたので、江戸時代です。
今も東京が流行っていますよね?
その流行を作り出したのが、江戸時代なわけです。
庶民のファッションや、キーワード、食通など、江戸から始まり、東京に引き継がれているのですから、長い流行ですね。
そして、蕎麦もしかり。
蕎麦が大人気であり、江戸のソウルフードであり、流行の始まりが、この江戸時代初期です。
当時、一番怖いとされていたのが「火事」であり、木造家屋の江戸住宅は、燃える燃える。
一ヶ月に一度は中規模な火事が発生し、家は火消しになぎ倒され、消沈し、また建て、燃え、壊し、建ての繰り返しです。
江戸の街には大工さんと火消しが肩もぶつかるように常駐しておりました。
つまり、日々、復興の街であったわけです。
その胃袋を支えたのが、今の日本橋から秋葉原辺りに密集していた、屋台街だ。
団子や寿司、天ぷらが特に人気があり、江戸前寿司の起源がココにあります。
そして、蕎麦は?というと、火を使う調理をしなければならない蕎麦屋台は、お上のお達しによる屋台での裸火禁止法案により、夜な夜なこっそり営業をするスタイルになっておりました。
江戸のソウルフード「かけそば」の誕生
それまで、そば粉を練り熱いお湯に入れ固めただけの、「そばがき」が主流だったモノを、つるつると食べやすく、細く細く切り出したモノを、「蕎麦切り」と呼ばれました。
この蕎麦切り、忙しい職人さんや、せっかちな江戸っ子に大好評となり、屋台でもひっきりなしの人気メニューとなり、今の時代にも引き継がれているわけです。
具材などはなく、蕎麦に熱いつゆをぶっかけた「かけそば」が主流であり、今の冷たいお蕎麦になるまでは、その商売で名乗りを上げたい蕎麦職人たちが、我こそやとしのぎを削った末の改良に改良を重ねた結果なのです。
当時のそば職人たちのアイデアは画期的なモノだったでしょうし、今の冷たいしこしこっとした歯ごたえのあるお蕎麦を産まれるまでに、そうは時間はかからなかったと思います。
盛るそばで「もりそば」の誕生
かけそば主流の中、温かくも汁を、よりたくさん提供する上で必要なのが、器と水。
お店を持っている高級店はいざしらず、地道にがんばっている屋台売りのお店からすると、このかけそばは、商売としては使う水の量も経費削減したいと考えたでしょう。
そこで、生まれた新メニューが、汁を濃くし、少ない汁にお蕎麦を漬けて食べる、「もりそば」です。
たしかに理にかなっている。
濃い少ない汁であれば、器も小さくて済む。
冷たい蕎麦なので、そばを盛る器は品質を落とせる。
つまり、当時、高級だった陶器を使わなくても、そばだけを盛るならば木製で良かったわけです。
つまり、ネーミングは、「かけそば」と区別するべく、盛るそばで、「もりそば」となり、こうして、さらに江戸には蕎麦需要が増えて行ったわけですね。
蒸すそば「せいろそば」の誕生
そうして流行したもりそばですが、冷たいそばは、たしかに温かい時期はおいしく食べれたでしょう。
夜も今のようにムシムシはしておらず、夏でも、夜霧が出てひんやりとしていたわけですし、やはり、温かいお蕎麦が食べたいわけです。
そこで、そば屋台が考えたのが、せいろを使って、そばを蒸す方式、蒸しそばだ。
おそらく、温かいつけ汁にせいろで蒸した蕎麦を提供していたのではないかと思われます。
今の時代では、あまり蒸しそばは聞きません。
強制的にふやかせるわけですから、コシを愉しむ今のそばとは少々趣が違うでしょうね。
ただ、蒸籠(せいろう)で蒸したそば、「せいろそば」のネーミングが残っているというコト自体、相当な流行を博したのではないかと推測されますね。
この蒸すという調理は無くなりましたが、蒸すためのせいろは、竹網により底上げをするコトが、少量のそばでも多く見せるコトができるとの観点で、その後の時代にも引き継がれている。
うまさとコストと手間を考えた江戸職人のアイデアレシピで、クックパッド並にレシピの出し合いだったと思います。
つまり、蒸すタメのせいろというよりも、この底上げコスト削減策が、今の「せいろそば」のルーツなわけです。
ざるに盛るから「ざるそば」の誕生
もりそば、せいろそばの流行で、屋台にも活気がある中、やはり存在を主張してくるのが、店舗を持つ高級店です。
江戸時代も平成も変わりありませんね。
高級店が、より単価アップを図りたく、いろいろとアイデアを出した中、流行を勝ち取ったのが、ざるそばです。
これまで、板切れに乗せていたそばを、竹で編んだ竹ザルに乗せて水切れを良くし、そばの風味と竹の香り、さらに、汁はみりんを配合した甘めのコクのある、特別な日に食べる蕎麦として大流行しました。
これが、江戸中期とされていますが、深川洲崎にあった店舗蕎麦屋の「伊勢屋」が、生み出したレシピが始まりとも言われています。
そして、今のざるそばは、海苔が乗っていますが、これはただの差別化というコトで、明治に入ってから広まったようです。
そばネーミングの妙
かけそば、もりそば、せいろそば、ざるそば とルーツはわかりましたが、今の蕎麦屋さんで、明確に差別化されているというコトはないようです。
例えばもりそばですが、せいろに乗っているトコロがほとんどです。
これは、出前主流だった昭和の名残りであり、つまり、積み重ねやすい、底上げして量を多く見せるコトができる、水切れが良くてのびにくいなどの理由です。
昭和の高度経済成長期は、蕎麦屋天国の時代。
外食と言えば、蕎麦屋か寿司屋かラーメン屋か。という程度です。
出前チャリで、やたらとせいろを積み重ねている画像を見たコトがあるでしょう。
いかに多く出前を運ぶコトができるか?が商売の基本だった以上、逆に風情というモノが失われていったとも言えますね。
ざるそばに至っては、せいろそばに海苔がかかっている程度のモノですし、つけ汁もすべて一緒。
要約すれば、かけそばは温かいぶっかけそばでそのとおりですが、その他のもりそば、せいろそば、ざるそばに関しては、同じモノと考えて過言ではないと思います。
すべての風情は、昭和の大量消費時代に失われた。と考えてイイのかも知れません。
日本橋の頭上の首都高。
残すより作る。そんな時代だったようです。
豊かさと引き換えに風情や赴きというモノが無くなってしまったことは、今でも古い蕎麦屋に入ると、「中華そば」とか「しょうが焼き定食」、「オムライス」なんてメニューが残っているのを見かけたりします。
とほほ です。
個人的な意見だと、天ぷらがやたらと主役級になっているメニューも、どーかと思っています。
蕎麦屋さんですよね?天ぷら屋さんじゃないですよね?
そば粉は外国産を混ぜて質を落とし、小麦粉を混ぜてコストをさらに下げ、管理を楽にして、海老天を奢ってなんとか単価と純利を上げている。
これが街の蕎麦屋さんの商売方法です。
素そばでは勝負できないんです。
しょうゆ+かつお 一択でバリエーションは無く、ただトッピングを選ぶだけのメニューですからね。
それに引き換えらーめん専門店はがんばっていますよね。
醤油があり、味噌があり、塩があり、鶏、かつお、煮干し、あごなどの多種多様な出汁を使って、様々な人たちにアピールしている。
正直、辛口に言うならば、今の蕎麦屋さんは、風情も残っていなければ、新しさもなく、ただ惰性でやっている感が否めません。
ただ、この令和の時代に、江戸の風情を復活させようとしている流れも汲めます。
昔を振り返るコトにより、これまで忘れかけていた風情というモノが商売になろうとしています。
こんな歴史のある江戸のソウルフード「蕎麦」の素晴らしさをしっかり伝えなければならないという想い、蕎麦屋さん、そば粉を製粉する製粉会社、そば道具屋さん、そば料理の材料を卸す商社さん、そして、そば打ち事業を提供するモノとして忘れてはイケないのですね。
コメント