東京名物 更科そば とは
信州長野が発祥である更科そば。
更科(さらしな)を知る場合、生そばの種類(そばの実の部位表現)である「更科そば」と、提供するそば店(現在のれん分け店舗)である「更科そば」を分けて考える必要性がある。ご当地そばという観点から言えば、後者ののれんそば店である更科そばを解説するのが正しいと考える。
情報文献はひじょうに多く、なんだか難しいことがだらだら書いてあるので、わかりやすく砕いてみました。
更科ものがたり(フィクション)
むかーしむかし、江戸時代の1788年、信州・・・つまり今の長野やな。そこの保科村っちゅーところで商売っ気のある堀井清右衛門(ほりいせいえもん)って男が、ま、ここではせいちゃんで呼ぶか。
江戸の麻布の上屋敷に、えっちらほっちら、それこそ先祖代々、昔っからの付き合いで、ちょいちょいなんかしら売りに顔出ししてたわけ。
麻布に住んでいるわけだから、そりゃもう一等地よ!そこのえらい人?領主ってのに、保科兵部少輔っちゅー男が居て、ま、今回、ほっちゃんで呼ぶか。
ほっちゃんがせいちゃんに言うわけ、「おめー そば打つのうめーな!そば屋やれや!」
客にそー言われて調子に乗らんやつはおらんわな。
んでもって、せいちゃんは、そば屋をやり始めることになったわけ。
よくわからんが、ほっちゃんは金を少し出してくれたかも知れんね・・・なぜならば、いつでもほっちゃんが食えるよーに、お店の場所は麻布に決めたんかも知れんから。
そーとなりゃ~故郷のこともあるし、ほっちゃんに薦められたってのもあるし、一文字使いたいなー なんて粋なことをせいちゃんは考えたわけ。
取り寄せるそば産地だったのが長野の「更級」ってところだったんだけども、そのまんま使ったんじゃ~つまんね!
ほっちゃんこと、保科の「科」を使わせていただきやす!ってことで、更科ってなったわけ。あーすっきり。
しかーも!せいちゃんのご先祖さん、堀井清助のきよちゃんは、本名が布屋太兵衛っちゅー名前だったみたいなんで、ま、名前何個あんだよ!って感じなんだけども~昔は当たり前だったんだな、これが。ま、そいでもってそいつも使おーか!ってことにしたのね。
んで最終的にそば屋の名前が、信州更科蕎麦所 布屋太兵衛 になったわけだ。
ただね・・・その後、戦争だのなんだので日本も大変な時代でさー このそば屋、昭和16年に潰れちゃったのよね。ツライ時代だったのね・・・
でも、そんな歴史あるそば屋、ただ潰すのはどーかと思うわけ。
そこで復活をさせた男がおったんだけど、ま、その際にいろいろとゴタゴタすることもあったのよ。本店はあっちだーこっちだーって裁判にもなったみたいなんだけど~ ま、仲良くしよーや!ってなって、今に至るのね。
そのゴタゴタを書くと、そばみたいになげーことになるんで、wikipediaでも見ておくんなもし。
あ、ところで、じゃ、更科製法の真っ白のそばとの関係は?と思うでしょ?
このせいちゃんが開いたそば屋とはなんの関係もなく、昔っから、白いそばって高級品だったわけよね、お米や砂糖と一緒で。ほら、白米って昔は高級だったし、白い砂糖も同じでね。
高級品=せいちゃんのおそば ってイメージが世の中に自動的に生まれたんで、じゃ、ウチのそば屋で白いそばやろーや!ってなってから、せいちゃんのそば屋=白いそば つまり、更科そばは白いそばってなったわけね。
よーは、白いそば、つまり一番粉ってのを更科と呼ぼう!ってなったのはせいちゃんのそば屋がすんごい流行ったからっちゅーのが由来なわけね。
今でもそーゆーのあるでしょ?『デジカメ』もそーだし『ウォシュレット』『セロテープ』も、もともと製品名だったのが、一般化しちゃうってやつ。
すげー偉業だわ。